2019年12月16日
あの日のことから その2
その1のチラシの日付でわかったのですが、
私たちが呼びかけたチャリティーバザールは1984年でした。
バザールの寄付金の結果をyouつうしんを発行して報告した。1985.2.20発行


参加してくださった方々とせっかくできた繋がりを大切に続けていきたかった。
でも、友人は夫の転勤に伴って東京にしばらく行くことになりました。
残された私は夫に教わりながら稚拙な「井戸端会議」新聞を作って繋げることにしました。
一人でチャリティーイベントをできる力がなかったのです。



手元にあるのはこの一枚だけです。
先日友人から10月号を持ってるよと知らせがありました。
これは1988年のものです。
中村先生はそのころまだパキスタンのペシャワールです。
1984年から20年間はハンセン病を中心とした医療活動に従事中だったそうです。
中村先生は戦争をしないで生きられる人々の命は医療より綺麗な水と食料が必要であるからと自ら井戸を掘ることを始めた。
ペシャワール会が鹿児島でも中村先生の講演会を開いたのでした。
それが何年のことかは今のところ手がかりがなくはっきりしません。
〈つづく〉
私たちが呼びかけたチャリティーバザールは1984年でした。
バザールの寄付金の結果をyouつうしんを発行して報告した。1985.2.20発行
参加してくださった方々とせっかくできた繋がりを大切に続けていきたかった。
でも、友人は夫の転勤に伴って東京にしばらく行くことになりました。
残された私は夫に教わりながら稚拙な「井戸端会議」新聞を作って繋げることにしました。
一人でチャリティーイベントをできる力がなかったのです。



手元にあるのはこの一枚だけです。
先日友人から10月号を持ってるよと知らせがありました。
これは1988年のものです。
中村先生はそのころまだパキスタンのペシャワールです。
1984年から20年間はハンセン病を中心とした医療活動に従事中だったそうです。
中村先生は戦争をしないで生きられる人々の命は医療より綺麗な水と食料が必要であるからと自ら井戸を掘ることを始めた。
ペシャワール会が鹿児島でも中村先生の講演会を開いたのでした。
それが何年のことかは今のところ手がかりがなくはっきりしません。
〈つづく〉