昭和50年代のこと

赤まんま

2020年05月31日 16:30

結婚して長女を授かった頃までは騎射場のにぎやかな通りに面した三階建てのアパートの2Kの部屋で暮らしていました。

最初のころは研究性として天保山の工芸研究所に通っていました。

卒業して轆轤師として窯元に就職しましたが、
あまりにも使い物にならなかったのか、
社長にきらわれたのか、桜島の工場に配置転換されてしまいました。

桜島には友人の窯元がありましたので、お弁当はそこに行って食べたりしていました。
その友人とは今も家族ぐるみの友人として支えあって生きている。

神様はいます
いつもどん底にいる時、友達が傍にいてくれる

いつ、そこを辞めたか何故かよく覚えていない。
自分の力に見切りをつけたのは確かだ。
陶芸は趣味にするしかないと。

ある日、上荒田の方までブラリと散歩に出かけた時、夫が高いビルを見上げて「あれはSさんが住んでるビルだよ」と教えてくれた。

「いいねえ、子供も生まれるしあんな処にすみたいなあ」と私も言いました。

しばらくして両方の友人だったそのSさんから
「転勤になったから2年間は空き家になるからローンの分の家賃でいいから住まないか?」
なんと嬉しいもちろん
という願ってもないことがおきました。

私も仕事を失くしてたし、夫の仕事も給料が遅れたり半分だったりする頃で
そんなところの家賃は払える状態ではありませんでした。
夫も後には転職することになるのですが。

11階建てのマンションの10階の3LDKの部屋は住み心地よく暮らさせてもらいました。

その時にあった面白い事件を一つ。
同じ階の隣の部屋にサラ金の取り立て屋が毎日、夜討ち朝駆けで来ておりました。
ドンドンドンとドアを叩く音がうるさく、
怖いし、臨月の身で耐えていましたが、
ある晩、隣との境のパネルの壁をトントンと小さくたたく音がしました。
ベランダを覗いてみると隣のオヤジさんが
「かくまってくれと合図してるではありませんか

部屋の夫を見ると酔っぱらってさっき帰って来て、グウグウ寝ています。
起こして事情を話すと、驚いてサッと顔色が変わって目が覚めました。
とにかく私たちの布団の脇に座って、耳を澄ませて取り立て屋が去っていくのを確かめてその人は、またベランダ」から帰ろうとしました。
夫が慌てて、もう大丈夫だからお願いですから玄関から帰ってくださいとお願いしました。
なんてったって、10階のベランダの手すりを渡ってきたのです。
二度もハラハラしたくないですからね。
ハッと気が付いたオヤジさんは腰を低くして
「はいはい」と玄関から帰っていきました。

それから間もなく夜逃げのようにいなくなりました。
最後に奥さんが「生まれてくる赤ちゃん楽しみにしていたのにねえ」と
残念そうにしてくれたので暖かい気持ちが伝わりました。
昭和50年代の話です。



そして、子育てしていくうちに10階までよくエレベーター点検に引っ掛かり歩いて上るのが大変だったことや、
電車通りの音がうるさかったことなどが気になり始めた。

丁度約束の2年が来る頃でした。

そのころ私の母が鍛治屋町伯父の留守宅のマンションを借りて料理教室をしていましたのでちょくちょく乳母車を押してそこまで遊びに行っていました。
そして、どうせ留守ならここを借りれたらどんなにいい事だろうと思うようになりました。

すると、だれも言ってないのに、伯父から「もうしばらく、福岡で仕事を続けることにしたので、マンションの管理費、維持費でいいのでお前たちしばらく住まないか」と言ってきたので「もちろん」
引っ越すことになりました。

そんなこんなで私はつくづく「神様はいる」と思います。
いつも見守っていて、生かされています。

部屋を散々使わせてもらって後片付けもそこそこに引っ越してしまった事
ほんとに申し訳なく穴があったら入りたい心地のままです。




そして、引っ越した日、下の階の人にご挨拶にいきました。
挨拶もそこそこに聞いてビックリ
昨日強盗に入られた
かえって来て着かえに洋服ダンスの処にいったら、なんと後ろから首を羽交い絞めにされ包丁で脅されたって。
静かにしろって
静かにできるもんですか、「ギャーってさけんで手に噛みついたの
そしたら逃げたって

だから今日警察が現場検証にきていたのよだって

間もなく犯人は捕まったけど

しばらくは寝つきの悪い夜が続きました。

いっつもなんかあるなあ。

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